吉敷毛利家墓所

毛利秀包公は毛利元就(もとなり)の末子(九男・十一子)で幼名才菊丸、市正、藤四郎。後、兄小早川隆景(たかかげ)(元就の三男)の養子となり小早川藤四郎元総と称した。更に豊臣秀吉と輝元(てるもと)(元就長男隆元の子)との講和の後、上坂し豊臣秀吉に仕え、小早川藤四郎秀包と改名した。

その後隆景に猶子(ゆうし)として秀吉の甥秀俊(のち小早川秀秋)を迎えたので、隆景は秀包に一家を建てさせ、再び毛利姓に戻した。

秀吉の四国・九州征伐、また朝鮮の役などに従軍して大いに功があり、久留米で十三万石を領し、従四位、侍従、筑後守となった。

慶長五年、大坂より帰国の途中、船中で病を発し、翌六年赤間関(下関市)で没した。

当寺にあるのは供養塔で、本墓は下関市豊北町滝部の西楽寺にある。 

吉敷毛利家墓所

吉敷毛利家墓所

開基・毛利秀包公

開基・毛利秀包公